アホ鏡

稚拙で支離滅裂ながらも日々感じたことを書き綴ります

三経義疏(未完成•保存用)

佛国品第一(下線部は現代語訳に不備あり)(書き下し文は未だ訳せていない印)(未完成)
佛国品第一とはヴァイシャーリー城の長者がやって来て天蓋を差し上げる事で十方にある諸仏の浄土を
顕わし、そして広く菩薩浄土の行を明らかにする。だから佛国品と称するのである。
もし余経の様なら、単に序品と言うべきである。
しかしこの経の序事は一つではなく計四つあり、各事に従って別名が付けられている、だから
序品とは言わないのである。
この経はまた衆経と同じく初めに開いて三とする。
つまり一には序説、二には正説、三には流通説である。

聖人がこの法を説く際にこの三つを用いる理由としてはこの理はとても深妙ではあるが
それを聴く衆生は根鈍であるので、もし突然衆生がこの深妙な理を聴いたとしても、それを受け入れるどころか更に嘘っぱちだと誹る心を生じさせかねない。
だからまず最初に大神通による超常現象を顕わし、それを以て成道への願いを生じさせる。
序事を現わすのは正法の為なのである。
この成道への願いが成じたのならば理を再度用いる事もない、だから第二に正説を説くのである。

この序正が終われば、直ぐに当時の衆生は皆利益を得るのである。
ひたすらに聖人の慈悲は限りが無く、遠く末代に至るまで衆生と同じように利益を獲る。
なので第三に流通説があるのである。
文をおくならば、この経は品が計十四ある。最初の四品は序説である。
そして問疾品より以下、見阿閦佛品から「衆生を挙げて皆見る」に至るまでの滅八品の経文を正説とするのである。
見阿閦佛品の中の「仏がサーリプッタに妙喜世界の無動仏をお前は見ることが出来ないと告げた」というより
以下の滅三品を流通説とするのである。

まず第一に序説を説いて二とする。
第一に最初に「一切の諸来の大衆を蔽われる」というに至る理由を名付けて通序とする。
第二に「その時ヴァイシャーリー城に長者あり」より以下の上巻を終える頃を名付けて別序とする。
「如是」などの五事は、普く衆経に散見される"修行によって得られた悟り"の義一である。
なので通序と称するのである。
諸経に序を作る理由は各々同じではなく、あるものは放光地動であり、またあるものは遺書乞食であり
今この経の様なものは天蓋を献上することを序としておるなど、色々な差異がある。だから別序と称するのである。

通序の中にも五事がある。それは一に如是、二に我聞、三に一時、四に住処、五に同聞人である。
文は五つあると言っても、内容は三つである。まず一つ目に如是と我聞の二事は、アーナンダの伝え聞いた事を基としているのであって、これが自作ではないという証明である。
そして二つ目に一時は伝え聞いた事の意味を顕わす。その理由としてはきっかけに称える教えであり、故に伝聞を用いる。
そして三つ目には住処と同聞を以て如是、我聞、一時の二義を証明する。
その理由としては再度私が聞くと言っても実際聞いたなら必ず果報があり
また誰かと一緒に聞いたということになる。
だからこの住処と同聞とを挙げて証明とするのである。


[本文]
中村元「全訳 維摩経」p155 L1~p155 L3

[解説]
「如是」とは考えるに様々な意味がある。
しかし今仮に一つの所説に因って述べるなら、是の如くとは信のことである。
つまり聖人の教えはすべて信じるべきものであるので、まず初めに是の如くと言うのである。
なので釈摩訶衍論では「海の様な仏法は智慧が無くては渡ることは出来ず、信が無ければ入ることが出来ない」とする。
是の如くとは信である。
肇法師もこの意味と同じものを説いたが、しかし少しの潤色を加えてこう言った
「是の如くとは信じ従う言葉であり、信じればすぐにいわゆる理に従い、従ったのならすぐに師匠への道を修め
経に豊も約もなく信ではないのならば伝えない。だから初めに是の如くと言うのである。

「我聞」とはアーナンダがブッダより直接承り、伝聞が偽りのないものであることを明らかにして、
とりあえず外道が説く自説の過失を表立ったものにしようとしたものである。
「一時」とは仏の働きかけとの釣り合いがとれている一時にして説いているので、
衆生の為に深い利益があるということである。

次に住処と同聞の二つを挙げて証明とする。その理由としてはブッダがヴァイシャーリー市のアンバパーリーの果樹園に
ましました際の説法だからである。ヴァイシャーリーはまたの名を好稻城と言う。菴羅(マンゴー)は果物の名前であるが、これには訳が無い。
肇法師が言うには桃に似ているが桃ではないが、ただ単に唐梨と言ってしまうとそれは既に彼の経典にある。しかしこの経が説く範囲はとても広いのに加えて菴羅にありと言うのはそれが生えている場所を指しているに過ぎないのだ。

次にまた同聞を挙げているのは一時を証明する為であり、その理由としては是の如き人達が集ったその機会を称する為だからである。
また我聞を証明する為でもある。その理由は是の如き人達が相集って一緒に聴いているので、その話が偽りではないとするためである。
それにも関わらず疑うのならば、この中の同聞の菩薩は皆八地以上であり、既に定位についた菩薩は依然として機会を用いない
と言うのが八地以上にあるのにどうして初めて気を起こしてこの経を賛嘆する理由になるというのだろうか。

私見ではアーナンダがこの同聞した衆を挙げることは、直接我聞を証明したいと欲しているのであって、これはすなわち正しい一時を
証明しようとしているわけではない。私見を以て推理するならば、この中の三衆はあまねく共聞し、初めてこの機会に適い
抑揚される者ではないのである。
第一にまず方丈衆を列挙し、第二に「そのときブッダは無量百千の衆生の為に興す」より以下の菴羅衆を列挙して結としている。
そして第一に方丈衆を列挙する中において三がある。

第一にまず比丘衆を、第二に菩薩衆、そして第三に凡夫衆を列挙する尊から卑への順番であるならば、当然まず菩薩を列挙するだろうし
もし卑から尊への順番ならば、当然まず凡夫を列挙するだろう。
加えてまず最初に比丘を列挙するのは大きく分けて二つの意味がある。

まず一つ目として形式的に論ずるならば、声聞乗を修する人は心に自度を宿してその他は持ち合わせない。
そして常にブッダの側に仕えているので出向いて教化することもない。
だから順序は一番最初なのである。
菩薩は心に益物を宿して、教化することに限りがなく、常にブッダに側に仕えないで
その往来は定まることがない。だから順序は少し後ろになるのである。
そして凡夫は欲に執着し、仏道を去ったり仏を見奉ることが稀だったりするのである。
だから順序としては一番後ろなのである。

そして二つ目として内容的に論ずるならば比丘は生死を嫌い、涅槃を求めるが凡夫は生死を好み、涅槃を畏れる。
この二つは双方仏の教えに背いており、共に中道から外れている。なのでこの二つをそれぞれ前後に配置した。
対して菩薩は心に益物を宿しているので、生死を嫌うことなく萬徳常果を証明しようとする。なので涅槃を畏れず、凡夫の様な偏りは持たず
見事に中道を修している。だから中央に配置したのである。

比丘という字には現在適当な訳がないが、竜樹菩薩は三義を使って説明された。
一には怖魔、二つには破魔、三つには乞食である。
加えて徳を賛嘆することなく、名を連ねることもない。
あるいはこの経は正しく抑小揚大を用いて肝要としている。
もし徳を賛嘆したのならばその執着はますます強まる、だから省略するのである。

ただ大を説明することはつまり尼衆とは異なることを表わすことになる。
それならば仏はこの経を説くときに際して、未だ同聞を連ねることがない。
ただアーナンダは詩を選ぶ時、深く仏の意思を汲んでこれをとどめたのである。
どうして抑揚を以て略すと言うのだろうか。

そしてアーナンダが経を集めている時は既に双林の後である。
これによって声聞乗を修する人は皆菩薩となってしまう。
誰がまた執着しようか。そして徳を賛嘆しないと言うのも、また当然であろう。
それなのに位を定め、名を列挙するのは一としても妨げる方法がない。
加えて未だに旧義の窮釈を聴いていないとどうして顕されようか。

ただ私見では、仏は維摩の病状を問う様に命じるとすぐに五百の声聞乗を修する人と八千の菩薩が現れた。
加えて更にそれらを省略してただ十弟子と四菩薩のみを顕わされた。
そうであれば、つまり弥勒菩薩はこの時にブッダの意思を汲んで、略してよくお保ちになった。
第二菩薩衆を列挙するなかにおいて自然と五重があり、第一として類を明らかにする。「菩薩」というのはこのことである。
第二に教えを唱える、「三萬二千」というのはこのことである。

[本文]
p155 L4~p156 L10

[解説]
第三に「衆生に知識せられ」以下は徳を賛嘆している。
第四に「その名を菩薩と言う」より以下に名を列挙し、第五に「是の如く」などで以下の教えを結ぶ。
つまりこの経は正しく菩薩の双観を高揚し、二乗の徧修を抑下することを以て宗としている。
そうであるならば七地以下は観行と断結が二乗と同じであろう。なのでこの賛嘆の中にはまた八地以上のみを挙げて賛嘆としている。
加えてまた用いない。前の二つは見ておくべきである。
第三に徳を賛嘆する文中において開いて三とする、第一に初めから「及方便力無シ不ルハ具足セ」に至って、総じて八地以上とは別に三地の菩薩を賛嘆する。

第二に「所得無キニ逮ビ」と言うより以下より別に三地を賛嘆する。
第三に「無量ノ功徳皆成就」より以下を総じて三地の賛嘆とする。
なぜかといえば八地以上は、一度空観に入れば永く出入の異はない。
なので第一に総じて賛嘆する。しかし出入の異がないとはいえ、深浅の区別が無いわけではない。
だから別に第二として賛嘆するのである。
ところが同じように二乗を超えて、利物の義を同じくしている、なので第三に総じて結び、賛嘆する。
第一に総じて賛嘆する中においてまた二つがある。
一つは往行を賛嘆すること、そしてもう一つは「法の城を護ろうとする為に」より以下で現徳を賛嘆することである。
「衆二知識セ所レ」とは菩薩世から出てきて慈悲を用いて衆生を教化する時に、遠からず近からずにいる仏心のある者は
すぐに皆、智慧が得られることが明かされている。

そして肇法師が言うには日や月は天にあるのを、目を持つ者は皆見ることが出来
菩薩世を出たなら、仏心を持つ者さえ知ることが出来ると。
この句は名前を賛嘆していない。
「大智本行皆悉ク成就セリ」とは、大智とはいわゆる仏智である。
つまり八地以上の一切の行法を仏智の本行としている。
今、八地以上の菩薩は己でよくことごとく修行している。だから「皆悉ク成就セリ」というのである。
また、大智というのは八地以上の智で、本行というのはいわゆる七地以下の智である。
それなのにもはやこの中の菩薩というのは、ただ八地以上の菩薩において賛嘆をしているのである。
もしこれが七地ならば道理において考えても不自然であるから、用いないのである。
この句は正しく往行を賛嘆している。「諸仏威神之建立スル所ナリ」とは行の本を挙げてることで結論づけて賛嘆している。
行本はまさしく尊く、所生での行いがどうして不潔なものになり得るだろうか。
肇法師が言うには天澤は私であっても枯木は潤せず、仏の威力がいくら広いものだと言っても
ハナから求道心がないものを発起させることは出来ない。ましてや「建立スル所」とは道を求める心が深いことは言うまでもない。

「法の城を護ろうとする為に」より以下で第二で現徳を賛嘆している。
内容についてはまた二つあって、第一には散嘆
そして第二には「心は常に安住なり」より以下にある法門に対する散嘆である。
更に第一の散嘆についてはまた二つあり、第一には意味を同じく略して自行外化を賛嘆し
第二では「能く獅子吼をする」より以下で広く自行外化を更に散嘆している。
そして「法の城を護ろうとする為に」にある、城というのには二つの意味がある。
一つには外から来た悪者は侵入することが出来ない。
二つには王道をよく世に知らしめる。
つまり、八地以上の菩薩は天魔を悉く撃退して、様々な外道を制するのは
城が悪者の侵入を許さない城のと同じく、よく仏法を護り大乗を世に知らしめるのである。
つまり仏法も王道もよく世に知らしめられる点で同じである。
「正法ヲ受二持シ」とは、聖なる教えは世の理に適っており邪なものではない
だから正というのである。そしてまた良い衆生の模範であるが故に法というのである。
今八地以上の菩薩はこれらを堅く護って決して失うことはない。だから受持と言うのである。

「能く獅子吼をする」より以下で第二に広く自行外化を賛嘆している。
その内容について六つの句がある。
初めの四句は上記の外化を広めて、後の二句は上記の自行を広めている。
「能く獅子吼をする」とは衆生の為に法を説く際に怖畏しないことを言う。
その意味は獅子吼をして衆生が狩りを畏れないのと同じである。
「十方二名聞ユ」とは善行が既に天下に満ちていれば
すぐに智慧がある人々が説法を聞けないということがない。
この句は名を賛嘆している様に見えるけれど、実は名聞を用いて獅子吼の徳を証明している。
この様な尊徳があるので、その名がまた十方に満ちてゆくことを明かしている。
この句は上弘仏道である。

衆生不請ノ友トシテ而之ヲ安ンズ」とは、菩薩の慈悲は衆生の求めを待たない。
だから不請というのである。
菩薩は衆生を教化して同じ極果を証明するので、友として之を安んずと言うのである。
肇法師が言うには理接の親友が求めなくとも己を護ることは
例えば母が自分の子に愛情を注ぐ様なものであると。この句は下化群生を明かしている。
「紹二降シテ三賓ヲ能ク絶エ不ラ使シム」とは、経の教えを弘通するので法賓が絶えない。
必ず受行があるので僧賓が絶えない。そして教えによって善を修め、最後に種智を成道するので
仏賓が絶えることがない。
つまり上記の「能く獅子吼をする」に従って上記の王道通流を広めることで
この句は上弘仏道を明かしているのが分かる。

「魔怨ヲ伏降シ諸ノ外道ヲ制ス」とは菩薩は威力を現わして
必要以上に外道や悪魔を撃退しようとはしない。
ただ魔は邪見の王であり、今菩薩が魔道を見るとすぐに恥がその身に懐いてしまうので
伏制というのである。
魔に対しては降伏と言い、外道に対しては制すると説くのは
魔は詳しく己の非を知っている為に、悪心を起こして仏法を損なおうとする。だから降伏と言うのである。
外道は正道を修することを求めているとはいえ、悟りへの執着があるので教えに背いている、だから制と言うのである。
つまりこの句は下化蒼生を明かしている。
また上記の不請の友という語に従って上記の外悪を菩薩は必要以上に
撃退しようとはしていないことを広めている。
「悉ク巳二清浄ニシテ永ク蓋纏ヲ離ル」とこの二句は上記の自行を広げている。
よく正法を受持するので、三業は隅々まで清らかである。
またよくいつまでも五蓋十纏を離れる。

「心常二安住」より以下で現徳を賛嘆する中の第二に法門について賛嘆している。
そして内容については七種の法門がある。
一つ目は無碍解脱、二つ目は正念、三つ目は無相定、四つ目は総持
五つ目は弁才つまり四弁、六つ目は六度、七つ目は方便。
直接文について見るべきである。

「無所得不起法忍二逮ベリ」より以下の徳を賛嘆するなかで第二に別に三地を賛嘆しており
その内容において三つがある。
第一に最初の「及チ雷ノ震如シ」に至るまで別にまた八地を賛嘆し、第二の「量有ルコト無シ」以下で
また別に九地を賛嘆している。
そして第三に「無等等二地近シ」以下は別に十地を賛嘆し、三皆二があり
一に位を定め、二に正しく徳を賛嘆している。
「無所得不起法忍二逮ベリ」とは位のことである。
「巳二能ク随順シテ」より以下では徳を正しく賛嘆し、もっともな道理の本には能得・所得の区別が無い。
だから無所得と言う。

逮の言葉は及であり、明解はよくこの理に及ぶので逮無所得と言うのである。
忍の言葉は慧であり、よく無生の理に安定しているので忍と名付けるのである。
この偈に感銘を受けて有無のどちらにも偏ることがない、だから不起と言うのである。
正しく徳を賛嘆する中において三とする。
第一に下忍を賛嘆し、第二に「深信堅固」より以下で中忍を賛嘆し、第三に「縁起二深ク入リ」
より以下で上忍を賛嘆している。
そして下忍の中にまた三つある。第一に徳を賛嘆し、第二に「功徳智慧」より以下で体を賛嘆し
そして第三に「名称高遠」より以下で名を賛嘆する。

「巳二能ク随順シテ不退輪ヲ囀ル」の退という字にはおよそ三つの意味がある。
それは一つに位退、二つに行退、三つに念退である。
如来はその三つの不退の妙法を用いて広く三退を導くのである。
今八地以上の菩薩も、また仏に随順してよく不退の妙法を世間に説法し広く三退を導く。
輪とはよく説法して衆生仏道へ送り、仏法はよく衆生を仏果に導くため説法(転じる)されるので法輪と言う。
つまりこの句は外化の徳を賛嘆している。
「法ノ相ヲ善ク解シテ衆生ノ根ヲ知ル」にある法の相というのは二諦の理や大小乗の法の相のことである。
「根ヲ知ル」とはいわゆる利鈍やその願いのことである。
この二句はよく薬の効能を知ることで病をも知ることを賛嘆している。
またこれは自行である。
「諸々ノ大衆ヲ蓋テ無所畏ヲ得タリ」とは総じて自行外化を賛嘆することで結んでいる。
その徳は群数の表を超えており、妙解二乗の境界を越えることがないので
仏の徳で 諸々の衆生を一人残さず覆い、畏れることはないことを明かしている。
「功徳智慧」より以下は第二に体を賛嘆してはおらず
「功徳智慧以其心ヲ修シ」も同様に心を賛嘆していない。

「相好身を厳ザリ色像第一」にある相とはすなわち三十二相であり
色とはすなわち八十種好である。第一と称するその意味としては
事の中に談をなさば三界に無き所なり。
理の中で理論立てをしなければ報累を絶ってしまう。だから第一と称するのである。
「諸ノ世間ノ所有飾好ヲ捨テ」とは疑を説いている。
ところで三つ説いていることがある。一つには法身の地には本から色相はなく、ただ惑わされている者のみが
それを見るので「諸ノ世間ノ所見色相を捨テテ」と言うのである。
二つには菩薩は元々既に現世での六識に関わる飾りは捨てており
ただ浄土の飾りのみであるので「諸ノ世間ノ飾好ヲ捨テテ」と言うのである。
そして三つには捨の言葉とは異なり、八地の色相はすべて妙本から起こるものであるので
「世間ノ飾好二異レリ」と言うのである。

「名称高遠ニシテ須弥ヲ踰エタリ」とは第三に名を賛嘆している。
その理由としては八地の菩薩は内外の徳が道理に適っているので成就させる
ので菩薩を賛嘆する声は遠く聞こえてあたかも須弥山を越える様である。
「深信堅固」より以下は第二に中忍を賛嘆している。その中において自行外化がある。
無生についての信心は簡単に移壊するものではない。つまりそれは金剛の堅さと同じである。
だからこの句は自行を賛嘆しているのである。
「法賓普ク照シテ甘露ヲ雨フラン」とは、妙解が為に衆生の為に規則と成るので法と称する。
これは衆聖が重視する部分であるので賓と言う。
一つの念の中で機を照らすことが最も良いので、普照と言う。
甘露の薬はよく諸天によって寿を得させ、八地の妙解はまた衆生を導き、法身の慧命を長引かせる。
だから甘露を例えとしているのである。
「衆ノ言音二於イテ微妙第一ナリ」とは八音の妙なる響きのように、機会に適って
説かれることを明かしているのである。

「深ク縁起二入リ」より以下で第三に上忍を賛嘆しているのである。
その中において自行外化がある。
「深ク縁起二入リ」とは色を無とする見解に達することを明かしている。
つまりこの句は智を賛嘆している。
「諸ノ邪見ヲ断ズ」とは十使の誘惑はつまり正しいものではなく、総じて邪見と称するのである。
「有無ノ二辺復タ飾習無シ」とは断と常の二見はどちらも中道の教えには適っていないので
辺見と称するのである。この二句は断を言っている。
ここより上記は自行を賛嘆している。
「法ヲ演ノブル二獅子吼ノ猶ホシ無キ」とは説法が機会に適って一としても畏れの消失はない。
この句は上弘仏道を明かしている。
「講説スル其所乃チ雷ノ震フガ如シ」とは慈悲の説法の利物は百草を潤す春の雷と同じであることを言う。
この二句は外化を賛嘆している。
上中二つの忍もまた当然別個に名体を賛嘆するだろう。加えて下忍は既に賛嘆している。

「量有コト無クシテ」より以下別嘆の中の第二に九地を賛嘆している。
その中でまた二つあり、一つには位を定める。
「アマタノ法ノ賓ヲ集ル」より以下で徳を賛嘆している。
「量有コト無クシテ」」とは色法には形量があるが、心法にはなく
新たに九地の菩薩が明らかに心教の境地に達するので「量有コト無クシテ」と言うのである。
そして色境には既に達している。なので「巳二量ヲ過タリ」と言う。
肇法師の見解は少しこの釈とは異なっている。
つまりそれは法身を得て無為の境地に入るのであって、心や智を用いて形を求めるべきではない
そして像を用いるべきでもない。だから「量有コト無クシテ」と言い
また、六地以下を有量と名付けたので「巳二量ヲ過タリ」と言うのである。

「衆ノ法賓ヲ集ムル 」より以下で第二に正しく徳を賛嘆している。
そしてその中においてまた自行外化についての記述がある。
「衆ノ法賓ヲ集ムルハ海ノ導師ノ如シ」とは衆生を教化して共に法の海に入り
積極的に善行を修すれば、最後には功徳や智慧の宝を得ることが出来ることを明かしている。
すなわちその意味としては導師が様々な商人を率いて共に大海に入り、効率よく宝を獲る方法を商人に教えて
多くの利益を上げることと同じである。つまりこの句は外化を賛嘆している。
「達シヲ諸法深妙之義ヲ了シテ」と言うその理由は仮有即空と悟ることを明かしている。
加えてこの句はよく薬を知っておくことを明かしている。
衆生往来ノ所趣ヲ善ク知ル」の往は過去、来は未来、そして所趣とは起病の理由を表わしている。
「及心ノ所行」とはいわゆる善悪のことである。この二句はよく起病の原因を知っておくことを明かしている。
これらは全て自行であるが
ただ私見を述べるならば、衆生を導いて宝を集め、自然と薬を知るわけでも
病を知るわけでも決してない。
もしそうであるならばただちに自行と外化の両方を兼ねていると言うべきである。
ただ別であることは、上の句が上弘仏道や慈心興薬を賛嘆していることや
下の句が下化蒼生をして悲心抜苦を賛嘆していることからも分かる。
別個に名体を賛嘆しない理由としては上記の八地を例として推すべきであるのであえて賛嘆しなかった。
または可なるべし
九地は色境に既に到達したのでそれに従って名体を賛嘆しないのである。

「近無等等」より以下の別嘆の中の第三において十地を賛嘆している。
無等等とは仏道と比べられるものは何も無く、更に仏と仏は共に等しいので無等等と言う。
加えて十地の菩薩は既に仏果に近いので「近無等等」と言うのである。
「仏自在慧」より以下では無等の人家の徳を賛嘆している。
その理由としてはこのように徳を持つので無等と言う。
十地の菩薩が未だに仏慧を完全に全うすることは出来ていないとはいえども
また既に近くに来たらんとすればなり。

「一切を闢閉スレドモ」より以下では第二に正しく徳を賛嘆している。
またその中には自行外化がある。
「一切ノ諸ノ悪趣ノ門ヲ闢閉スレドモ」とはつまり五道での果は
理に照らし合わせると善ではないので悪趣と称するのである。
十地の菩薩は既に五道の報すら超えているので闢閉という。
五道に生まれないことがただ十地なのではなく、初もまたそうである。
およそ生まれの原因を断つことは十地で極まった。だから十地において不生を賛嘆するのである。
つまりこの句は自行を賛嘆している。
「而モ五道二生ジテ」より以下では外化を賛嘆している。
「而モ五道二生ジテ其身ヲ以テ現ズ」とは法身は普段は無生だけれども
衆生を教化しようとすると、衆生の住む五道に生まれることを明かしている。
そして「大医王ト為リ」より以下では五道で生を受ける意味を講釈している。
それはただ衆生に利益を与えたいが為に無生にもかかわらず再度生を受けて五道に姿を現わすことを明かしている。
「無量ノ功徳」より以下で賛嘆する徳の中の第三で三地を総括して結嘆している。
その中に三つある。第一に自行外化の賛嘆。第二に「其見聞スル者」より以下で総じて化道または機会に達する
ことに失敗はないという賛嘆。そして第三の「是ノ如ク」以下の結嘆である。
「無量ノ功徳皆成就シ」というのは総じて自行を賛嘆している。
そして「無量ノ仏土皆厳浄ス」とは総じて外化を賛嘆している。

「其見聞スル者益ヲ被ラ不ト無シ諸有ノ所作モ亦唐損ナラズ」とは衆生を教化する機会に
適うことに失敗はないことを賛嘆し、また衆生を教化することが機会に適わないことがないので
見聞者を皆残らず益するのである。
また所作が全て虚構ではないということも明かしている。
そして「是ノ如ク一切ノ功徳皆悉ク具足セリ」とは第三に結嘆しているのである。

[本文]
p156 L11~p156 L17

[解説]
「其名ヲ菩薩ト曰フ」以下で第四に名前を列挙し、全て合わせて三万二千の菩薩達がいた。
しかし、この場合はただ五十二の菩薩の名前を列挙するに留めている。
「是ノ如キ等ノ三萬二千人アリ」で第五に教えを結んでいる。

[本文]
p156 L18~p157 L2

[解説]
「復萬ノ梵天尸棄等有リ」より以下で同聞について言及する中で第三に凡夫衆を列挙している。
その中において四つがあり、第一に色界の梵王、第二に「復萬二千有リ」より以下で欲界の帝釈天
第三に「並二飾ノ大蔵力」より以下で八部衆、そして第四に「諸ノ比丘」より以下で人衆を列挙している。
尸棄は梵王の名であり泰では頂髭と言い、存在するわけではない。だから「飾来従」と言うのである。

天帝とは須弥山の頂上三十三天に住んでいる。これは欲界の天を列挙している。
第三に八部を列挙している。まず龍には二種類あり、一つは地龍、二つは虚空龍。種に四生がある。
そして神とは善悪の報を受けて、その容姿は人に勝り、天には劣り、軽微であり認知し難い者である。
また夜叉は泰では軽健と言い、種類は三種類あり、一つは飛んで空中におり、二つは地上におり、三つには天にいる。
常に諸天の門番として働いている。
乾闥婆とは諸天の音楽神であり、地上の賓山の山中におり、天が楽を用いる時
異相をなして現れてすぐに去って行く。
阿修羅は泰では無酒神と言い、男神の容色は醜いが女神は美麗であり大威力を持ち、よく天と一緒に戦っている。
迦棲羅(ガルダ)とは金翅鳥神である。加えて緊那羅は諸天の音楽神であり、乾闥婆より劣り
その容色は人に似ているが頭には一本の角がある。
摩睺羅伽(マゴラガ)とは地龍であり、脚がなく腹ばいに進む。
この上記の八部の鬼神は全て神力を用いて人の形に変わって、説法の場に座して法を聴く者である。
「諸ノ比丘」より以下で第四に人衆を列挙しているが、その順序を鬼神の後にしている理由としては
鬼神は諸天の使者であるので天に続いて列挙されるのである。
そして「諸ノ比丘」とは衆生が出家した者であるので鬼神の後なのである。

[本文]
p157 L3~p157 L5

[解説]
「彼時仏興タメ二」より以下で同聞衆を列挙する中の第二に仏辺衆を挙げて結嘆としている。
仏辺衆とは菴羅衆のことを言うのであり、この経は正しい方丈に在って説いているのである。
この仏辺衆を挙げて文章を結ぶ理由は付属している因、すなわちこの同聞衆と仏辺衆の二衆を合わせて一衆とする為である。
だから悉く二衆を挙げて我聞を証明しているのである。
しかしその方丈の衆は、広大な菴羅程ではない。
「彼ノ時仏無量ノ百千之衆興タメニ恭敬園繞セラレテ法ヲ説キ給ウ為二」の彼の時とは
アーナンダが集まりの後ろに立って前方の説法を聴いている証明であるので、彼の時と言うのである。
また方丈衆が今まさに来ようとしている時とも言える。
「無量衆ノ興タメニ法ヲ説ク」とは方丈衆がやってくる前に仏が菴羅衆の為に法を説いたのである。
「譬ヘバ須弥山王の如シ」より以下では重ねてその集会の様子を表わしている。
「一切ノ諸来ノ大衆ヲ覆ヘリ」とは方丈衆のことを言っている。
ただし別の序の初めではその時と上の状況を受けて後を推すのはすなわち
方丈衆がやってくる直前に賓積長者がやって来て仏に天蓋を献上したその時である。
つまり賓積長者が天蓋を献上したのは方丈衆がやって来る前の事であるのが分かる。故に然ることを得ず。
なので解釈するならば、菴羅への説法が無い時が無いので方丈衆がやって来る前に仏が菴羅衆の為に説法をしたその時に
賓積長者がやって来て天蓋を献上したのだろう。
つまり方丈衆が集まってくる時に当たっては、賓積長者がすぐに菴羅衆と合流して一衆となったのだ。
だから知るべきである、ここで無量の衆と言うのは賓積長者を合わせて言っているのである。

ここを以て推測すると、アーナンダはこの菴羅への説法を挙げて方丈衆がやって来る初めの様子を明かそうと
しているのである。
そしてここで説法をすることをする理由は、方丈衆が来る前に菴羅衆の為に説くからである。
またここで諸来の大衆と言い、また方丈衆と言うのは下巻の菩薩行品の初めに仏が菴羅衆の為に
法を説く時に浄名と文殊と方丈衆を束ね、仏に詣でて敬礼をする事が所以である。
ある人は解説して、彼の時以下の文章は別の序に入れるべきであると言う。
そして彼の時を解説すると、アーナンダが集まりの後ろに立って前方の説法に臨んでいるので
彼の時と言うのである。
「無量ノ衆ノ為二法ヲ説キ給ウ為二」とはまた前の文のように菴羅衆の為に説法しているのである。
諸来の大衆とは方丈衆が来る前の菴羅衆への説法の時にまた飾衆がやって来たことを指すのである。
この偈でアーナンダが全てを菴羅衆への説法へ挙げる理由は、賓積長者がやって来て仏に天蓋を献上するきっかけを
明かそうとしているからである。
なので別の序の初めに書かれた"その時"とは勝手に去って行くことを指す。
また一つ挙げると、同聞衆を列挙する中において開いて二とする。
第一に正しく同聞衆を列挙し、第二に「彼ノ時仏興タメニ」より以下を略した上で
時を付加させることで当時の衆生への説法の様子を表わしているのである。

「諸来ノ大衆」とは先ほどの付加に応じて説法の時に様々な衆生に加えて飾衆もやって来ることを表わす。
しかしこの偈は、賓積長者が天蓋を献上するきっかけを表わそうとアーナンダが挙げたものではない。
また方丈衆がやって来る初めの様子を明かす為でも無い。
ただ略して各々時に応じて仏が説法する様子を表わしているだけである。
下記の"その時"とは如来が直接浄名に衆生へ不思議を顕わさせようとしている"その時"に
賓積長者がやって来て天蓋を献上したことを言う。

[本文]
p157 L6~p160 L13

[解説]
「その時ヴァイシャーリー城」より以下は序説の中のまた第二の別の序である。
その中において三つ展開している。
第一にこの仏国品を名付けて原起序とし、第二の方便品を名付けて述徳序、そして第三の弟子と菩薩の二品を
名付けて顕徳序とするのである。
なぜならば浄名と賓積は同じ法身の大士であるので、常に法の城を護るというのもまた同じである。
また涅槃の境地に遊び寝食を共にする。
しかしこの時賓積が一人で説法の場に現れて、浄名が来ないことの理由が病気の為だと仏が知り
文殊菩薩を遣わして病状を確認させることで不思議を顕わされた。
だからこの品を称して原起序とする。
またその中において五つ展開している。
第一に賓積等が天蓋を献上したことを明かし、第二に「仏之威神」より以下で仏が天蓋を受け取ったことを明かし
第三に「爾時(その時)一切ノ大衆」より以下では説法を聴いた衆生が仏の威力を賛嘆して三業供養をしたことを明かす。
更に第四の「長者子賓積」より以下で賓積長者が天蓋の中に現れた十方浄土を見ることが出来たことによって
賓積長者が浄土への因果の意味を仏に問うことを明かし、
そして第五の「仏言ク善哉賓積」より以下で如来が広く浄土への因果の意味を明かして賓積長者の問いに答えるのである。
加えて「爾時」とは如来が今まさに浄名に不思議を顕わさせようとしていた時を言っている。
また仏が菴羅で衆生へ説法をした時もまた"その時"である。

そして如来が天蓋を受け取る際にまた四つあり、第一に五百もの天蓋を合わせて一つとし
第二に「普ク三千ヲ覆フ」より以下で天蓋が覆う範囲を明かし、第三に「又於三千」より以下で
天蓋に応じて現れる様々な相を挙げて、第四の「又十方」より以下で十方の浄土や諸仏の説法が現れる様子を明かしている。
また五百の天蓋を合わせて一つにする理由は略して三つある。
一つはこの経は正しい不思議を以て宗としている。つまり如来は法の王であるので、まず不思議を顕わして浄名への不思議の
説法を始めるのである。
二つには行いの因がたくさんあっても所得の果は法身のただ一果に過ぎないことを表わそうとしている。
そして三つには五百の長者の分別する心を除こうとしている。だから合わせて一つとするのである。

第二に「普く三千を覆フ」とは如来の慈悲が普く六道の隅々まで覆うことを表わそうとしている。
第三に様々な相を表わすのは如来が完全に法界に照達しており、求めに応じることが出来ないことはないことを
表わそうとしている。
第四に十方浄土を現わすのは衆生に浄を願い、穢れを捨てて、まっすぐに福徳を得ようとする心を起こさせようと
しているのである。
第三の三業供養は参照するべきである。
第四の請問の中において二つある。第一にまず如来の神力を賛嘆し
第二に「爾時長者子」より以下では正しく請問している。
第一の賛嘆の中におおよそ三十六の偈があるのを分けて九重とする。
その中で第一に初めの二行の偈は仏の三業を賛嘆し、第二の「既二見ル大聖ノ神変ヲ以テ」より以下の二行の偈は
天蓋を合わせて十方浄土を現わすことを賛嘆する。
第三の「法王ノ法力ハ群生ヲ超エ」より以下の五行の偈は仏に法王の徳があることを賛嘆する。
第四の「始メ仏樹二在リ力魔ヲ降ス」より以下の六行の偈は仏の一化始終の徳を賛嘆する。
第五の「毀誉動カズ須弥ノ如シ」より以下の二行の偈は仏の平等な慈悲を賛嘆する。
第六の「今世尊二此ノ微蓋ヲ奉ル」より以下の四行の偈は仏が天蓋を合わせて三千の衆生を普く覆い
様々な相を現わすことを賛嘆する。
第七の「大聖ノ法王ハ衆ノ帰スル所ナリ」より以下の八行の偈は仏の身口の二密を賛嘆する。
第八の「稽十力大精進二首ス」より以下の四行の偈は仏の智断、両方の徳を賛嘆する。
第九の「悉ク衆生来去ノ相ヲ知ル」より以下の三行の偈は仏の真俗の二智を賛嘆する。
「目ハ浄ク修広ニシテ青蓮ノ如ク」とは、一つの体の中で目を最重要とするので賛嘆の初めとしている。
つまりこの句は身業を賛嘆するのである。
「心浄クシテ已二諸ノ禅定ヲ渡シタマヘリ」とは意業を賛嘆し、「久シク浄業ヲ積ミテ称無量ナリ」とは
上の二業を証明し、過去から浄業を積んでいるのでこれらの様に果報を得られることを明かすのである。
そして「衆ヲ導ク二寂ヲ以ス故二稽首ス」とは口業を賛嘆するのである。
第二に仏が天蓋を合わせて十方浄土を現わしたことを賛嘆している。参照するべきである。

第三に仏に法王の徳があることを賛嘆する中で三つ展開されている。
第一に初めの一句は正しく法の徳を賛嘆し、また法によってよく自在を得る。なので法王と称する。
更によく天魔を下して諸々の外道を制するので法力と言う。この二つの徳は衆への教えには出ないので、超群生と言う。
第二にその次の一句は法王を釈して、常に法の財宝を一切の衆生に分け隔てなく施すので法王と称することを明かしている。
「能ク善分別シテ」より以下で第三に法財の相を出しており、更にそれを分けて二つとしている。
その一つは初めの二行の偈は通門について有を説いてその上で無に背かない事を明かし
第二に後ろの二行の偈は別門について無を説いてその上で有に背かない事を明かしている。
仮有と実有を分けないので通門と言い、仮有と実有を分けるので別門と称する。
「能ク善ク諸法ノ相ヲ分別シテ」という理由は仮有の因縁の意味に到達することを明かしている。
「第一義二於テ動ズ」の動とはすなわち乖である。つまり仮有の理に達したといえども真無の理から離れることはない。
また、この二句は正しく有を説いたとしても無から離れることはないことも明かす。
「已二諸法二於テ自在ヲ得タマヘリ」とはよく有を説いて無から離れることがないのを釈し
既に諸法においては自在を得ていることを明かしているので、よく自在を得ることはこの様である。
そして「是ノ故二此ノ法王ヲ稽首ス」とは結びである。

「法ハ有二アラズト説ク」より以下では第二に別門について無を説いて有から離れることはないことを明かしている。
「法ハ有二アラズ亦無二アラズト説ク」では有法は挙体即空であるとし、またその為に有ではないとしている。
有が無いのなら、無には無である理由が無くなってしまうのでまた無でもないと言うのである。
あるいは無ではないというのはつまり俗諦が無ではない、とも言うのである。
「因縁ヲ以テノ故二諸法生ズ」の理由としては有無には定義がなく、ただ因縁に応じて生じるからである。
この二句は賓法の無を説くことで、賓法の有から離れないことを明かしている。
「我無ク造無ク受無ク」とは我と造と受は挙体即空であるだろうことを明かしているので、皆無という。
「善悪之業亦亡セズ」とは真諦が無いといえども俗諦もないとは限らないことを明かしているので、また亡せずと言う。
以上の二句は仮名の無が仮名の有から離れることがないことを明かすのである。

第四に仏の一化の全てを賛嘆する中の六行の偈を三つに分ける。
初めの二行の偈は仏が仏覚を得て初めて三昧に入られたことを賛嘆し
次の三行の偈は仏となってからの説法を賛嘆し
最後の一行で賛嘆を結んでいる。
「始メ仏樹二在リ力魔ヲ降シ」では仏が初めて菩提樹の下で天魔を下したことを明かしている。
更に「甘露ノ滅ヲ得テ覚道成ズ」では甘露のを得て様々な智慧を得たことを明かしている。
そして「巳二心意無ク受行無シ而モ悉ク諸ノ外道ヲ挫キ伏ス」では仏が更に威力を増し、様々な外道を下そうしないでも
ただ正しい行いを日頃実行しそれを確立させれば、様々な邪は勝手に挫き伏せられることを明かしている。
ある説ではこの一行の偈は仏が仏覚を得る前の事を賛嘆しているとも言っている。
「巳二心意無ク受行無シ」では仏が一旦外道に従ったとしても決して心からその外道の行に従うことはなく
ただ邪な教えを改めさせてから再度正行を実行しようとすることを明かすのである

第二の仏となった後の説法を賛嘆する三行を分けて二つにすると
初めの二行は十二年中の相を説いて教えを賛嘆し、
次の一行では三十年中で五時の般若を説いたことを賛嘆するのである。
「法輪ヲ六千二三タビ転ズ」とは四諦の所以を言っている。
加えて三転とは一つには是、二つには教、そして三つには利である。
つまり衆生はこの転法輪によって三慧を得ることが出来ると明かすのである。
「其輪本来常二清浄ナリ」では四諦の理は累を滅ぼし、解を生じさせ、その性質は本来常然なものであることを明かすのである。
「天人道ヲ得ル二此レヲ証ト為シ」では狗隣の五人が羅漢果を得て、八万の諸天は須陀洹道を得たことを明かしている。
「三賓是於テ世間二現ズ」とは覚道が成道してすぐに仏宝になり、所転の四諦は自然と法宝となり
狗隣の五人は自然と僧宝になることを言っている。
「斯ク妙法ヲ以テ群生ヲ救ヒ」とは五時の般若は明教よりも妙なるものであることを言う。
「一タビ受テ退カズ常二寂然タリ」では三乗の衆生はただ有相の四諦を聴いたとき、退くことがある。
しかし無相を聴いたのならすぐに無漏の真解が得られる。
更に退くことで生死を為すことはことはないことを明かしている。
「毀誉二動カザル」より以下の二行の偈は第五に仏の平等な徳を賛嘆している。
八風が身に降りかかっても全く動じない様はまるで須弥山である。
ちなみに八風とは「称・識・苦・楽・利・哀・毀・誉」のことである。

「善ト不善ト二於テ等ク慈ヲ以ス」では衆生がまた非行に走って、その後に善を修したとしても
如来は平等な、分け隔てのない慈悲を注ぐことを明かしている。
「心行平等ニシテ虚空ノ如シ」とは平等を称している。またその理由は平等の理に達して心行を修めることが
まるで虚空の様であるので、そうであると明かすのである。
「熟タレカ人賓ヲ聞テ敬承セン」とは誰かが平等な慈悲を聴いてこれに帰敬しないということを明かしている。
肇法師が言うには天に在っては天賓であり、人世に在っては人賓であり、人世や天で賓である者がどうして
人世や天の所能でもあるのだろうか。だから衆生は皆敬承しないことはないのだと。

「今世尊二奉ル」より以下の四行の偈は第六に仏が普く三千世界の衆生を覆うことを賛嘆する。
それに応じて様々な相を顕しているので、参照するべきである。
「十力哀レンデ是ノ化変ヲ現ズ」の十力とは智慧の意味である。
加えて哀見とは大悲の別名である。その十力に応じて機会を見ては、大悲を用いて衆生から苦を取り除く。
理としてはこの様に深益であるのでこの化現をなすのである。
「大聖ノ法王ハ」より以下八行の偈では第七に仏の身口の二密を賛嘆している。
その中において三つある。まず第一に始めの一行の偈は二密を賛嘆しようとしてまず二密の主意を挙げている。
そして第二に次の一行では略して身密を賛嘆している。
第三に六行を挙げて口密を賛嘆する。六道四生それぞれを世尊が見て自分とは同じではないと思うので身密と言うのである。
ただ仏のみがよく得られるので不共と言うのである。
第三に口密を賛嘆する中に三密がある。
その第一の「仏一音ヲ以テ説法ヲ演スル二衆生類二各随ヒテ解得皆謂ヘラク世尊ト其語ヲ同クスト」とは
仏が一音を用いて説法をする時は、東西離れた二人ですら同じ内容を聴くと言うのである。
第二の「仏一音ヲ以テ説法ヲ演スル二衆生各々所解二随フ普ク受行スルコトヲ得テ其利ヲ獲」とは
その所聞の不同を明かしている。あるいは集を説くことを聞くとしている。
第三の「仏一音ヲ以テ説法ヲ演スル二或ハ恐畏有リ或歓喜ス或ハ厭離ヲ生シ或ハ疑ヲ断ズ」とは
その解の生ずる所以は同じではないことを明かしている。
あるいは苦義は難しい言葉であり、つまり恐怖が生じて厭離する者がいたり
あるいは苦義は優しい言葉であり、つまり歓喜が生じて疑いを断つ者もいる。
とりあえずそうであるとはいってもこの一音の所在はなかなか見つかりにくいものである。

今ここで法空法師の解釈を以下に述べようと思う。
妙本が絶えて一音が無く、ただその跡に沿って幾万もの派生がある。

 

 

さたでーらんちまうんてん

土砂崩れと雨でグチャグチャの山道を一人ひた走る

大学生活にも心身が慣れだして日々に張り合いが生まれつつあった今日この頃、鈍った体を叩き起こす為に山登りを立案し早速電車に小一時間揺られて着いたのは妙見山

降りた先に広がる原風景に目を輝かせながら人の気配が全くない獣道をてくてくてくてく歩いて行くと、あった見つけた。如何にもな雰囲気を醸し出す小さな小さな山道入り口。

かんかん照りの太陽の光すら通さない鬱蒼とした深緑に、思った以上の急勾配。
周りをブンブン飛び回る小虫を払いのけながら奥へ奥へと進んで行くと、前方に何やら土砂崩れの警告看板が半ば打ち捨てられた様に立っていた。

元来真面目な性分なのでこのまま通り過ぎる訳にもいかず、近くの切り株に腰掛けていたおじさんにダメ元で通って良いか尋ねると、「通っていいよ」とあっさり承諾してくれたので半信半疑で看板を超えた。


すると眼前には土砂と昨晩降った雨でグチャグチャになった山道がこれでもかと言う程延々続いていた。
看板を見て引き返さなかったことを悔やみながら仕方なしに延々歩くが、どうにも頂上に着く気が全くしない。
それどころか地面の状況は更に悪化している様で
道幅は極端に狭まり、足元には大小様々な石がゴロゴロ転がっていた。

それでも滝の様な汗を流し、ゼーハーゼーハー喘ぎながらひたすら進んで行くと何やら祭囃子が聞こえて来るではないか。すると一気に孤独感は消え、火事場の馬鹿力で鉛の様な足を無理やり引き上げながら駆け上がった。
そのまま無我夢中で突っ走っていると突然目の前が開けてドッと人の声が溢れ出した。頂上だ。

喜ぶよりまずガクガクの足を労わりながら近くのベンチに腰掛けるとポーチからアクエリアスを取り出して、一気に飲み干す。すると自然と口をついて
「頑張った頑張った」と自分自身を励ましていた。

普段山登りに慣れている方からすれば何を大袈裟なとバカにされるだろうが、たるんでいた自分にはおおきな何かを成し遂げた最高の気分だったのだ。
自分史上最高に充実した土曜日だった。

 

 


帰りはリフトを使って下山しました。流石にカラダが保ちません。

 

 

晴レ時々下痢ラ

お久しぶりです。

毎朝腹をさすりつつ腸のご機嫌取りをしていた五月も過ぎ

毎晩満員電車のすし詰めの攻略法をブツブツ考えていた六月も過ぎ

七月に入ってしまいました。

相変わらず腸は弱いままでご機嫌取りは欠かせませんがそれでも少しずつ少しずつ

腹痛の頻度も低くなり、以前に比べればそれなりに快腸です。

 

五月、六月は古事記日本書紀の注釈本を読みつつ、新たに先代旧事本紀を加えて

果てしない妄想の世界へ傾倒しつつありました。

というのも漠然と八百万神について調べていてもラチが開かないことに気づき、物部氏へ路線変更しようとしたのです。

幸い近所に物部氏氏神を祀るお寺もあったので、それと併せて読んでいましたが六月末に突然興味が引き潮のようにさーっとどこかへ行ってしまいました。

なので七月は仏教関連の本を読みあさりつつ、古書への興味が再燃するのを待っています。

 

大学ではサークルには一応入って、忙しいなりにも様々なイベントへ自分なりに足繁く通っています。というのも以前から人との会話に苦手意識を持っていたこともあり、この環境を最大限に活かして半ば荒治療的に克服してやる腹づもりです。

その甲斐あってか、目に見える程見違えた訳ではありませんが徐々に苦手意識が薄れてきたように感じます。

 

今が人生で最もエネルギッシュに動ける時期だとよく聞かされますし、事実そうでしょう。だから苦手なものは潰しつつ、長所は伸ばして自分なりに楽しいキャンパスライフにしていこうと思います。

あと下痢も治します。

 

 

大学生活

お久しぶりです

もう環境ががらっと一変しました、だから初日は下痢はするわ頭痛はするわでてんやわんや、しかし一ヶ月も経てばだんだん体が慣れてきて、いくぶんかはマシになってきました。

 

春休みは早起きをする必要がないぶん張り合いのない日常をただただ溶かすだけのいわば消化試合でしたが、こうしてすし詰めになりながら大学に通う現在は辛くもありますが、張り合いがあってなんとも言えぬ充足感に充ち満ちています。

さらにTOEICの勉強は継続したまま今は資格の勉強も始めたので、帰りはいつも真っ暗ですがこれも小さな自己投資だと考えれば自然と笑みすらこぼれます。

もちろんこれが一週間あるのですさまじい疲労が蓄積されますが、それは土曜日に死人の様にゴロゴロすることでリカバーしています。

 

そんな中でも恒例の寺社巡りも同じく継続しており、余裕が生まれ始めた最近はリフレッシュも兼ねて飛び回っています。

この前は住吉大社に行ってきました。小さな頃はあの異常なまでの傾斜を誇る太鼓橋に心底震え上がりなかなか渡れずにいたのですが流石に体も大きくなった今、ひょいひょいと渡れてしまうのが何とも嬉しくもありましたが、同時にどこか時の流れの速さも感じて寂しさもこみ上げてきました。

 

歳を重ね心身共に成長すると弊害も住吉の太鼓橋のようにひょいひょいと超えられるようになりますが、その度にふと問題解決に頭を抱えていた昔の自分がうらやましいと考えてしまいます。心の奥底では大人になりたくないとする自分がいるのかもしれませんね。

以上、近状報告でした。

 

 

 

 

寝起き風呂で死にかけた話

事の発端は食後の一時間程のまどろみでした。

 

心地良い眠りにズブズブと沈んでいく意識をなんとか総動員させ、眠りから覚めた私はボーッとした頭でとりあえず風呂には入らなければならないと思い立ちました。

 

ついでに私はよく入浴時の友として漫画を持ち込むのですが、今回もその例に漏れずにその辺にあった漫画をチョイスし、浴室へ。

 

寝起きの頭で身体を簡単に洗って、浴槽にざぶん。

鼻歌を歌いながら漫画を読んで約20分。

汗もいい感じに出てきたのを確認して浴槽から上がろうとした瞬間、とんでもない吐き気ととんでもない頭痛が突如として襲いかかってきました。

 

とりあえず立っていられない状態だったので、床に坐りこみながらゆっくりと深呼吸を繰り返しますが、一向に収まらない。

遠のきそうになる意識を必死に抑えつけ、半狂乱になりながらもとりあえず深呼吸。

 

吐き気•頭痛と格闘していると段々症状が緩和してきたようなので脱衣所まで這って移動しますが、その先でまたもや吐き気がぶり返し倒れこみました。

 

こうしたイタチごっこを二、三回繰り返して、やっと立てるようになったので柱に掴まりながらそろそろと立ち上がり、慎重かつ雑に身体を拭いてリビングへ。

 

混濁した意識の中とりあえず水を一杯飲んで裸で冷たいフローリングに横たわり、症状が収まるのを待つこと15分。

すると、まるでさっきまでの吐き気と頭痛が嘘のように全快したのです。

 

発症の理由は何もわかりませんが、二度と食後にまどろむことはしないよう誓いました。

ちゃんちゃん。

 

 

 

 

侮るなかれ

こんばんは、お久しぶりです。

toeicの勉強以外することが特にないので、半ば入学までの日数を溶かして生きている様な状態です。

 

 

最近は専ら近所の市営多目的施設で勉強をしているのですが、そこに日中小学生が集まってカードゲームやDSなどでワイワイ騒いで元気よく遊んでいます。

何事も声に出しながらでないと覚えられない恥ずかしがり屋の私には、そのワイワイが結構ありがたい存在だったりします。

 

ある程度勉強が進むと休憩がてら、彼らの会話を聞いたりするのですが、私達が小学生の頃の語彙力に比べて格段に豊富なのです。

時々、私が驚いてしまうほど難しい言葉を使う子もいる程です。

 

それが何による影響なのかは全く見当がつきませんが、改めて子供だと言って侮ってはならないのだと気付かされました。

好きこそ物の上手なれ

こんばんは

ここ二、三日の大雪に年甲斐もなくはしゃいで風邪をひきかけました。

 

さて今日、改めて二ヶ月前に不合格となり苦汁を舐めた前半テストの国語を解いてみたところ、合格の安堵感を伴った最高のコンディションだったにも関わらず60点しか取れませんでした。

やはり詩人の文章は肌に合わないのか、それとも出題の仕方が意地悪なのか。

 

こうなって来ると詩人の文章を半ば反射的に避けてしまうようになり、果てには全ての詩人の文章はこの上なく読みづらいという偏見まで持つようになってしまいます。私がそうです。

 

思うに詩人が書く文章は問題として扱うべきではないのです。これを問題として扱ってしまうと、解答者は出題者の感性と詩人の感性の両方を汲み取って答えを出さねばなりません。

とんでもなくめんどくさいですし、楽しくありません。

 

面白い出題は解き終わると、思わず笑みがこぼれるほど楽しいものです。数学には数学の達成感がありますし、国語にも国語なりの清涼感たっぷりの達成感があります。

その達成感を味わえば味わうほど解くのが楽しくなり、それにつれて点数も上がってくるのです。