バ鏡

稚拙で支離滅裂ながらも日々感じたことを書き綴ります

NO神頼み

こんばんは。

いよいよ明日が合否発表ということで心配で食事も喉を通ります。

 

突然ですが、神頼みってしますか?

試合前に、試験前に、合否発表前に.....

挙げていけば枚挙にいとまがありません。

 

私の母親も例に漏れず近所の神社に合格祈願をしに行って来てくれました。気持ちはとてもありがたいし、母の献身ぶりには頭が上がりません。

しかし、私自身はあまり神頼みが好きではありません。

 

理由は簡単で、自分なりの精一杯の努力や苦労の末に臨んだ受験の合否をそっくりそのまま神様の判断に委ねてしまうのが、どうもいけ好かないですし、

これで受かって『ありがとう神様!』なんて言ってしまえば、その瞬間これまで心血注いで積み上げてきたものを他でもない自分自身で全否定することになると考えるからです。

 

もしお百度詣りして受かったとしても

それは自分自身で掴み取った合格であって、神様の合格ではありません。

だから胸を張って『自分の力で掴み取った』と豪語しましょう。

 

日本史

こんばんは。

公募推薦を受け終わり、結果発表にガタガタ震えています。

 

落ちていた場合に備えて勉強しなければならないのは重々承知していますが、やはり結果が気になって頭に入りません。

というか、落ちてしまったら日本史が明らかに間に合ってないので為す術なしになってしまいます。

 

こんなことなら春先からコツコツやれば良かったという辞世の句すら浮かんで来ますが、もう過ぎた時間は取り戻せませんし、仕方なく血眼で暗記しています。

 

 

 

福神漬け考察

突然ですが、カレーライスに付いてくる福神漬けの存在意義について考えたことがありますか?

 

昨日食堂でカレーライスを注文し、向かいのテーブルを見るとオプションとして各種漬物がバイキング形式でズラリと並べられていました。

大体何処にでもある、ありふれた光景です。

しかし明らかに福神漬けが他よりも減っていたのを見て、ふと疑問に思いました。

その疑問こそが、

冒頭の『福神漬けに存在意義はあるのか?』

です。

 

本来漬物は際立った味を持たない白米の味をより際立たせる為の、いわば脇役であり、カレーライスの福神漬けもその道理からは外れることは決してありません。

しかし問題はカレーライスの場合白米にカレーがかかり、味は他の追随を許さない程に濃く際立っているのに漬物が何故必要なのか?ということなのです。

そこで3つほど仮説を立ててみました。

検証など行っていないので、信憑性は甚だ欠けていますし、文章もいたって稚拙なものですが読んでいただければ幸いです。

 

1.彩りを添える為

カレーは基本おしなべて茶色です。

(例外的にブルーカレー、イエローカレーなどがありますが、今回は加味しません)

人参を入れてもやはりその濃い茶色に呑まれ、茶色にくすんだ暗いオレンジ色になってしまいますし、何を加えても茶色に染まってしまいます。

 

しかし、そこに外から真っ赤な福神漬けを加えるとどうでしょう。地味な色のカレーが少々華やいだではありませんか!

 

つまり、この仮説における福神漬けは

"食べる為"ではなく"飾る為"に存在する、本来の用途とはかけ離れたものなのです。

 

2.辛さを和らげる為

カレーは周知の通り辛い食べ物です。

しかし人間みんな「辛いもの大好き!」なんて言うはずがありません、辛いものが苦手な人は多数居ます。

そんな人が何もなしに辛いカレーは食べられないでしょう、そんな時に甘めの福神漬けが役に立つのです。

つまり辛さで真っ赤な舌を優しく福神漬けが介抱してくれるイメージですね。

 

つまやらこの仮説における福神漬けは

辛さを軽減する、箸置きの様な存在なのです。

 

3.余ったご飯の為

まず始めに、カレーの食べ方は

1つはスプーンでそのままカレーとご飯をすくい取って食べる方法

もう一つはご飯をあらかじめ、ぐちゃぐちゃにかき混ぜてから食べる方法

の主に二種類に分けられますが、今回は前者としてお話していきます。

 

カレーをバランス良く食べるのは簡単に見えて案外難しいもので、意識して食べてもほとんどの場合ライスが余ってしまいます。

ちょうど柿ピーのピーナッツばかり食べてしまって、おかきだけになってしまった場合に似ています。

 

そんな時そのまま白米をスプーンで食べてもいいのですが、最後まで美味しく食べたい!

そんな時に福神漬けは存在意義を持つのです。

つまり、カレーライスから白米への転換が福神漬けによって初めて可能になる訳です。

 

この仮説における福神漬けが最も本来の用途に沿っており、福神漬け君も本懐を遂げられるのです。

 

 

以上の3つを挙げてみました。

私見を述べますと、最後の仮説が最も大衆的かと思います。

みなさんはどうお考えでしょうか?

 

 

ランニング再開

こんばんは。

冷蔵庫の奥に放置していたブルーチーズを食べたら見事に大当たりして、下痢腹を抱えて泣きました。

 

さて、前回書いた通り試験が一通り終わったので控えていたランニングを二日前くらいに再開しました。

勉強ばかりでロクに運動をしていなかったので、少し走っただけで膝やら腰がメリメリ

息はゼーゼー虫の息....という具合でもなんとか走りきった後、ランニング効果なのか、わだかまりや心配事が解けたような晴れやかな気分で机に向かうことが出来ました。

 

どうやら『健全な精神は健全な肉体に宿る』を実感を持って知れたみたいです。

 

国語への愚痴

こんばんは。

つい二日前で年内の全ての試験を終えました。

結果を考えると頭痛がしそうですが、終わったものは最早どうしようもないので次に向けて精進するのみです。

 

二ヶ月あれば長文700は最低でも4周は出来ますし、まだまだ英語を飛躍させる手は腐るほどありますし、各改善点が明白なので気持ちは比較的楽です。

 

しかしそんな英語とは打って変わって、どうしようもないのは国語で、こいつだけは為す術がまるでありません。

その理由は英語数学などとは違い

『これは必ず出る!』とか『この時はこう答えれば大丈夫!』などの一種のヤマ張りを一切許さない非常に変動性に富んだ不確かさにあります。

つまり、どう勉強したとしても、必ずぶっつけ本番になってしまう訳です。

 

特に厄介なのは詩人や哲学者で、彼らは自分の頭の中の物をそのまんま文字に起こし、はっきり言って読者の理解などは二の次にした文章を書き上げます。というか書き殴ります。腹立ちます。

これを趣味として読むならいざ知らず、著者と出題者の意図を汲んで解かねばならないとなると、誰でも嫌になります。

 

一方で建築家などペンを握ること以外を本業とする人達の文は読みやすい物が多く、たとえ試験で出されたとしても気持ちよく読み進めることができ、楽しく解くことが出来ます。

 

難解な文章を書く人は凝り固まった自分の知識をひけらかしたいのか、自分の頭の中のものをただ純粋に引っ張りだしただけなのかは知りません。

しかし、もし前者なのなら二度と文章を書かないで欲しいと思うのです。

とてつもなく優しい文章を書いてくれという訳ではなく、万人に伝わるような配慮をして欲しいのです。

 

 

続 長文700

こんばんは

ついに師走、坊さん以上に受験生があちこち走り回る月になりました。

その例に漏れず、私もあちこちを走り回ることになるでしょう。

 

さて、先日自前のおっちょこちょいで購入した長文700ですが、予想をはるかに上回る活躍ぶりでお先真っ暗受験地獄に垂れるクモの糸になってくれそうで、内心嬉しく思います。

 

「あつものに懲りてナマスを吹く」

という言葉通り難解な英文を読み進めることで、比較的平易な文でも一字一句を丁寧に読むようになって来ましたし、スピードも心なしか上がっている様な気がします。

 

私の使い方ですが、まず朝一番で設問を解いて答え合わせします。基本バツばっかりですが気にしません。

次に正答率の如何に関わらず知らない単語は調べて覚え、朝に二回、昼に二回、夜に二回の計6回長文を通しで読みます。

 

長文"700"なので最初は二回読むだけで優に25分は掛かりますし、とても疲れますがめんどくさがらず、一字一句噛み締めて意味を理解しながら読みましょう。

 

おそらく誰もが既に行っているはずですし、わざわざ文字に起こすのも恥ずかしい程当たり前のことですが

とりあえず以上が私の長文700の使い方です。